十和田湖畔休屋の御前ヶ浜に建つ「おとめ像」。詩人にして彫刻家であった高村光太郎の傑作として知られ、十和田湖の文字どおりのシンボルとなっています。光太郎は「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」と詩にも詠んでいますが、昭和28(1953)年秋の完成からすでに60年が過ぎました。改めて建立のいきさつを辿ってみることにします。
十和田湖を世に出した功労者は、明治の文人・大町桂月、「十和田知事」の異名をとった武田千代三郎知事、地元の法奥沢村長で県議でもあった小笠原耕一の三人であると言われています。この3人の顕彰をねらいとした記念事業が、昭和初期から県の手で練られ、昭和21(1946)年には「自然石を使った記念碑建立」の方向で動いていました。
昭和22年春、初の民選知事として就任した津島文治は「世界的な景勝地に、ありきたりの石碑では似つかわしくない」と従来の計画を白紙に返し、新構想のための建設準備委員会を発足させました(昭和25年)。県職員四人による委員会の中心になったのが横山武夫(当時県教委教育次長でのち副知事、歌人)。委員会ではさまざまな意見が出ましたが、横山はかねてから強い印象を抱いていた関東大震災復興記念像「悲しみの群像」(被服廠跡)のような芸術作品を据えることを提案、これにまとまっていました。
横山らは「制作は高村光太郎」を念頭に置きながら内外の意見を求めたところ、異論のあるはずもなく、それどころか谷口吉郎(建築家)、土方定一(美術評論家)、菊地一雄(彫刻家)、草野心平(詩人)、藤島宇内(詩人)という贅沢な顔ぶれによる建設委員会が生まれました(昭和27年)。谷口は設計者としても関わることになりました。さらに強力な推進力になってくれたのが佐藤春夫(文学者)です。春夫は光太郎への口添えから現地踏査にまで付き添ってくれています。
県からの正式依頼は昭和27年4月。光太郎は「自然美には、人工を受け入れるものと受け入れないものの2つがある。現地を見て決めましょう」と答え、その年の6月、春夫や谷口たちとともに十和田湖入りしました。そして、
「十和田湖の美しさに深く感動した。湖上を遊覧しているうちにいくつも制作イメージが湧いた」
「私はギリシャはやらない。アブストラクトもやらない。明治の人だから明治の人としてものをつくりたい」
そう言って快諾したのです。
像は、向かい合う二人の裸形の乙女。当時、光太郎は岩手県太田村の山荘で過ごしていましたが、制作のため東京へ戻り、中野にある友人、中西利雄(画家)のアトリエで取り組みました。
「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合い、見合うなかで深まっていくものがあることを感じた。それで同じものをわざと向かい合わせた」
「二体の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す」
「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」
と、モチーフを語っています。春夫も「十和田湖の自然を雄大で静かで、内面的な風景と見て、そうした自然の味わい方を表現したもの」と解釈していました。
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはありませんでした。完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになったが、それを確かめた横山に対し「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と光太郎は答えています。
体の方はモデルがいました。藤井照子、当時19歳。東京のモデルクラブに所属する姉妹の1人でした。野辺地町出身の彫刻家、小坂圭二が光太郎の意を受けて探し当てた人で、みちのくの自然美に対抗できる、力に満ち満ちた女性美の持ち主。彼女は選ばれたことに誇りと使命を感じ、光太郎の制作の手が止まると「先生、始めましょう」とうながしては奮い立たせました。
完成は翌28年の晩春。納期にこだわらない光太郎にしては、めずらしく順調な仕上がりでした。満足した彼は、打ち合わせに訪れた谷口と横山をアトリエ近くの料亭に招き「みなさんの協力のお陰だ」と感謝。歌舞伎役者の声色の真似までしてもてなしました。
鋳造は国宝など文化財の復元で知られた伊藤忠雄。原型となった小型像が1つあります。60cm大のもので、智恵子の母校・日本女子大学校から熱心に所望されましたが、光太郎は青森県への寄贈を決め、県庁の知事室に飾られていましたが、現在は青森県立郷土館に展示されています。
記念像の除幕式は昭和28年10月21日。紅葉を静かに濡らす雨が落ちていましたが、光太郎は横山に「きよめの雨だね」と言ったそうです。式には春夫をはじめモデルの藤井や設計者の谷口、建設委員としてさまざまなかたちで力を貸してくれた草野、土方たちすべての関係者が参加しました。奥入瀬渓流・銚子の滝近くにある春夫の「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑も、同じ日の除幕となりました。
光太郎はこのあと倉田雲乎像の制作にかかりましたが、病に倒れて完成せず、この「おとめ像」が最後の作品となりました。落成当時の高揚した気分は詩作にもよく現れ、昭和29年1月、雑誌『婦人公論』に発表した「十和田湖畔の裸像に与う」は、気迫溢れるものでした。
十和田湖の魅力を、面白くわかりやすく、マンガで紹介します。
詳しくはこちら→→→