安政5年(1858年)当時の盛岡藩鹿角郡毛馬内村柏崎(現在は鹿角市)に、和井内貞行は生まれました。
和井内家は藩の重臣で毛馬内柏崎新城の城代であった桜庭家の筆頭家老職を勤める家柄でありました。
貞行は武家の子として厳しく躾けられると共に、明治維新期の盛岡藩と秋田藩との激戦と敗北を肌で感じながら、幼少時代をこの毛馬内で過ごします。慶応2年(1866年)、9歳の時に藩の儒学者・泉澤恭助の塾に入門。明治7年(1874年)、17歳で毛馬内学校(現在の鹿角市十和田小学校)に教員手伝いとして奉職しました。
そして明治11年(1878年)、貞行21歳の時に鎌田倉吉の長女カツと結婚。
明治14年(1881年)、24歳の時には工部省小坂鉱山寮の吏員として就職、官営十輪田鉱山は明治5年(1972年)から数年間で休山となり、明治14年になって、銀山が再開発されます。明治17年9月には、小坂鉱山とともに、藤田組(現在の同和鉱業)に払い下げとなり、同時に貞行も藤田組の社員に身分が代わることになりました。この年、27歳の貞行は、初めて養殖漁業に乗り出す決心をするのです。
明治17年、鹿角郡長小田島由義、十輪田鉱山長・飯岡政徳の許しを得て、初めて鯉600尾を十和田湖に放流。十和田湖への魚類放流は貞行が6人目であり、鯉の放流も3人目でした。
翌年、湖畔に小学校が開校する事になり、その記念に鹿角郡長より鯉(コイ)の稚魚1400尾の寄贈を受け放流。明治22年(1889年)秋、宇樽部付近の湖上に大きな鯉が跳ねたのを付近の炭焼きたちが目撃します。これにより、和井内貞行の養魚に対する想いもますます強くなっていくのでした。
画像提供:小坂町
明治23年8月、貞行らは関係する役所を経由して青森県と秋田県へ湖水使用権に関する書類を提出しました。翌年、青森県から湖水使用の許可を得ます。
明治26年(1893年)には、秋田・青森両県から十輪田鉱山の鈴木通貫、宇樽部の三浦泉八との連名で8年の湖水使用許可を受け、いよいよ湖の漁業権が確立されることとなるのです。
しかし、漁業権を擁立し本格的に養殖漁業に乗り出そうとした矢先、営業不振のため十輪田鉱山は休山に追い込まれてしまいます。銀山からは多くの労働者や家族が去ってしまい、【鉱山で働く人たちへの食糧調達】という漁業の目的は崩れ去ることとなりました。加えて明治27年(1894年)、貞行に小坂鉱山への転勤命令が下がりました。
明治30年(1897年)7月には和井内貞行にとって大きな転機が訪れます。40歳の貞行は養殖漁業に専念するため藤田組を依願退社し、小坂から十和田湖へと帰郷。養魚に専念し、鯉を小坂や毛馬内の市場に出荷し始めたのです。鯉(コイ)の評判は良く、神戸で開催された第2回水産博覧会には大きな鯉を二尾出品。同時に繁殖法と缶詰製造の技術を学ぶ為、東京・関西方面へ足を延ばしたといわれています。
貞行はすっかり寂れてしまった銀山に旅館「観湖楼」を営業し、人工孵化場を作りました。また、新聞に十和田湖景勝の記事を載せ、湖の宣伝にも乗り出しました。
明治33年、43歳となった貞行は、長男貞時とともに事業の浮沈をかけ、青森水産試験場から買い入れたサクラマスの卵を孵化させると、5,000尾の稚魚を放流。また、日光養魚場からも日光マス(ビワマス)の卵を買い、孵化させて稚魚35,000尾を放流します。これにより、いずれも多額の借金を抱えることとなってしまいました。失意の貞行は青森市の東北漁業組合本部を訪ね、偶然にも信州の寒天商人から北海道支笏湖の回帰性のマスの話を聞きます。このマスこそ、アイヌ語でカバチェッポ、後にヒメマスと名付けられる魚でした。
貞行の希望は再び大きく膨らみ始めます。
青森水産試験場ではカバチェッポの卵200,000粒を買い求め、うち50,000粒を貞行へ託すこととなりました。妻のカツは貞行を支える為に自分の着物や櫛、愛用の懐中時計などを質入れするなどし、卵を購入する為の資金を調達したと云われています。
明治36年5月、卵の孵化に成功した貞行はその稚魚30,000尾を放流。「和井内マス」と命名しました。しかし、このマスが放流地点に帰るのは3年後のことであり、また苦労の日々が続くこととなります。
和井内家の家計は困窮しました。
しかし、そんな生活苦の中でも貞行は決して希望を失わず、明治38年(1905年)の日露戦争勝利を記念し、生出に新しい孵化場の建築を始めます。
カバチェッポが群れをなして帰って来たのは、その年の秋のことでした。
これが21年の歳月と多額の経費を投じた養殖事業成功の瞬間です。
明治40年、和井内貞行は養魚事業の功績により「緑綬褒章」を授けられました。ところが、長年苦労をともにしてきた妻のカツが病に倒れ、46年の生涯を閉じます。湖畔の人々はカツの温情に感謝し、大川岱に「勝漁神社」を建立して御霊を祀りました。
その16年後。十和田湖に一生を捧げた和井内貞行も65年の波乱の生涯を閉じます。大正11年5月16日のことでした。
昭和8年には「勝漁神社」を「和井内神社」に改称。
今では和井内貞行と妻のカツが共に祀られ、大川岱地区での信仰を集めています。
小坂町立総合博物館郷土館発行『十和田湖と和井内貞行』より抜粋・改編